「蓮生法師のご和讃」    作詩 漆間淳郎/補作詩・作曲 松涛基道

 平成十八年九月四日(旧暦)、熊谷寺開山法力房蓮生法師八〇〇年の大遠忌を記念し、当寺副住職法蓮社良誉淳郎が作詩し、浄土宗吉水流の御大松涛基道先生が補作詩及び作曲した蓮生法師一代の和讃です。
 師法然上人のもと、念仏の道に邁進し、上品往生を遂げた蓮生法師のお念仏は今もこの熊谷寺に連綿と受け継がれています。この和讃を唱和することにより、蓮生法師のお念仏に対する感謝の心を共有し、檀信徒のみなさまにも、このすばらしいお念仏の教えを共に分かち合えたらと考えております。


板東一の剛の武者
 義朝公に従いて
  武勲も高し その名こそ
   武州熊谷直実公





●平治元年 「平治ノ乱、義朝に従い十七騎随一の名を得る」

 永治元年、熊谷郷に生を受けた直実は、早く父を失ったが、幼少より弓矢の達人であり、性格は剛直であった。初陣は保元の乱、続いて平治の乱では源氏に従い都に上り、各所の合戦に勇威をふるい、一騎当千の高名をあげた。中でも、平治の乱には悪源太義平に従い、侍賢門十七騎の随一といわれた。

●治承四年 「源頼朝ニ臣従、「ほやと向い鳩」の紋を賜ふ」

 大庭三郎景親に破れた頼朝は、数名の家臣と山腹の臥木の大洞に忍んでいた際に、直実と梶原景時に発見された。もはやこれまでとと覚悟を決めた頼朝に、そのまま潜んでいるようにと告げ、辺りにあった宿り木(ほや)の枝をとって大洞の口を隠した。後からあらわれた大庭勢が疑わしくしていると、直実は「こんな朽木の中に源氏嫡流の佐殿が入られるはずはあらず」と大庭勢を制した。そのとき、この朽木より2羽の鳩が飛び出したため、「野鳩がいるようなところに人はいないであろう」と納得し、他を探しにその場を離れていったのである。
 頼朝は、この危機から脱したのは八幡宮の御加護であるとし、その後、御旗にも伊勢大神宮八幡大菩薩の文字の下に白鳩2羽を八文字に縫わせた。また、本陣の幕には、蔦車に八文字の鳩を染め抜いて用いた。これを恩賞として直実に賜り、これにより熊谷家は、蔦に鳩を定紋としたのである。
 また、治承四年十一月にあった常陸佐竹氏の金砂山城攻めの合戦で、直実は抜群の功を挙げ、板東一の剛の者と称され、熊谷地方の地頭職に任じられた。

寿永の昔一の谷
 敦盛討ちて果敢なさに
  吉水禅房訪ねては
   法然上人に救い乞う





●寿永三年 「無官太夫平敦盛を討ちとる」

 歌舞伎『熊谷陣屋』「須磨浦の段」で有名なこのシーン、嫡子直家が戦で傷を負ったことが気掛かりで、大した軍功も挙げられずにいた直實であったが、助け船に乗ろうと、汀の方へと逃げていく平家の君達のなかに、練貫に鶴を縫いあしらった直垂に、萌黄の匂の鎧をつけ、鍬形をうった甲、黄金造りの太刀、切斑の矢、しげ藤の弓、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいている武者一騎を見つけた。
「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ。」直実にそう扇ぎをあげられとって返ってきた武者、自慢の剛力で組み伏せ、頚をかかんと甲を押し上げてみると、我子小次郎くらいの年齢で、薄化粧し、容顔美麗にて、どこに刀を立てるたらよいのかと躊躇した。小次郎が軽い傷を負っただけでも直実は心苦しく思うのに、この武者の父が、討たれたと聞いたらどれ程嘆かれることであろう、と思い、見逃そうと考えたのである。
 しかし、後ろに源氏方の武士たち五十騎ばかりがどんどん近づいてくるのを見ると、直実は涙をおさえ言った。「たすけまいらせんとは存候へ共、御方の軍兵雲霞の如く候。よものがれさせ給はじ。人手にかけまいらせんより、同じくは直実が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ仕候はめ。」
 後にわかったことであるが、この若武者は修理太夫経盛の子息太夫敦盛ということで、生年十七とのことであった。このとき所持していた名を小枝(青葉の笛とも呼ばれる)といい、祖父忠盛が鳥羽院より給わり、経盛が相伝されたものを敦盛が所持していたのであった。
 この一件により、以前より武士としての自分に無常を感じていた直実の発心の想いはいっそう強いものとなったのである。
「平家物語」では次のように結んでいる。

「狂言綺語の理といひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀なれ。」

全て投げ捨て縋りなば
 そこに浄土の花ぞ咲く
  法然上人膝下にて
   念仏の功徳に涙する




●文治元年 「吉水の禅房、法然上人を訪ねる」

 心ならずも敦盛を討ち、その後の供養を心に決めた直實は、以前知人から紹介された聖覚法印を訪ねた。
 聖覚法印を待っている間、蓮生は懐から鎧通しを取り出し、手水鉢にて研ぎだしたのである。これを見て取り次ぎの者が恐る々るどうされたのかと尋ねると、直実は、「これへ参るは、後生の事を尋ね申さんがためなり、もし腹を切り命を捨てねば、 後生は助からぬと承らば、腹をも切らん料なり。」と答えたという。
 このような覚悟の直實を見て、聖覚法印は、それならばと法然上人を紹介した。

 かくして、初めて法然上人に対面したのである。
 法然上人は、「罪の軽重を問わず、ただ念仏さえ称えれば、極楽に往生することができる」とお教えになられた。それを聞いた直実は、さめざめと泣いてしまったという。不審に思った法然上人が尋ねると、
「自分は手足を切り、命をも捨てて、はじめて往生できると聞いていたが、今、上人から、ただ念仏さえとなえれば往生することができるということを聞き、あまりのうれしさに泣いてしまった」と答えたというのである。


大原問答 危機に立つ
 上人守る斧持つも
  かえりて教え諫められ
   「斧替名号」授かりぬ


●文治二年 「大原談義」

 浄土宗開宗から10年余りを経て、法然上人の名も日ごとに高まっていった文治2年(一一八六)秋、法然上人は後の比叡山第六十一代座主となる顕真法印から浄土教についての「談論(討論会)」をお願いされる。場所は京都大原の勝林院、南都北嶺の大徳碩学など三百人以上が集まる大宗論大会となった。

 例のごとく、蓮生は法然上人のお供をすることとなったのであるが、弟子たちのよからぬ噂を耳にした。勝林院に集まる多くの聴衆のなかには、「念仏停止」を訴える過激な僧徒が法衣の下に刀剣を隠し持ち、仏罰と称して法然上人を襲撃するのではないか。蓮生はこれを聞き、法然上人に一大事があってはならないと法衣の下に鎧を着込み、帯には鉈(短刀)を忍ばせて出かけることとなった。仏門修行中とはいえ、「板東一の剛の者」と称された蓮生の武士としての血が騒いだのであろうか。
 法然上人一行は、勝林院手前にて石に腰掛け一休みする。その蓮生の姿を法然上人は見咎めて、
 「帯に差しているものは何か」と尋ねられ、「僧形に不似合いのもの故、捨てよ」
と命じた。蓮生は法然上人の仰せに逆らうことはできず、やむなく鉈を近くの竹藪の中に投げ捨てたと伝えられている。
 この場所は、現在の大原三千院近くの律川と呼ばれる谷川に掛かる萱穂橋を渡りきったところで、「熊谷腰掛石鉈捨薮」と刻まれた石碑が建っている。

 後日、法然上人は蓮生に、鉈の代わりにと「利剣即是弥陀号 一声称念罪皆除」と記された南無阿弥陀仏の名号を賜れた。利剣は即ち弥陀の名号なり、一声称念すれば罪は皆除かれる、という意味である。この名号は「斧替名号」と称され、現在当寺院に収蔵されている。

師の大恩に感泣し
 美作久米の生誕地
  屋敷の跡地そのままに
   誕生寺をば建立す





●建久五年 「誕生寺建立」

 蓮生の師法然上人は、十三歳のときに叡山に登った。その後、父母には何一つ孝養の道もとれずに今日まで過ごしてきてしまったことが気がかりであった。上人は、三尺ほどのご自身の木彫像を蓮生に渡され、父母の供養を頼んだ。

 蓮生は、師の誕生地である美作へと向かった。上人より預かった三尺の御木像を背負い、須磨から姫路、出雲街道を下り稲岡ノ庄栃社にき、一本の銀杏の木が立っている壁塀に囲まれた居城跡が遙か前方に見えると蓮生は感激号泣し、天地も裂けんばかりに高声念仏を称えた。ここ誕生寺は、浄土宗特別寺院の1つで、栃社山誕生寺といい、法然上人二十五霊場の第一番となっている。崇徳上皇の御代の長承二年(一一三三)四月七日、押領使漆間時国の長子としてお生まれになった法然上人の誕生の地である。

  「両幡の 天下ります 椋の木は
     世々に朽ちせぬ 法の師のあと」

 この歌は蓮生が感激して詠まれた歌で、大意は「上人がお生まれになったとき、天の彼方から二流れの白い幡が飛んできて、庭の椋の木に掛かり、美しく輝いたと伝えられている。この木とともにお念仏のみ教えも、時を越えていつまでも繁り栄えることであろう」。

 自分自身を救い、その後の生き方を示していただいた師法然上人と、お念仏のみ教えへの一途な思いが込められている歌として浄土宗御詠歌の第一番として今も多くの人々に唱和されています。


尊き念仏のみ教えを
 武蔵の民にも分かつべく
  「不背西方」の逆さ馬
    南無阿弥陀仏と東行す




●建久六年 「熊谷下ニ向フ(東行逆馬)」

 弥陀の御慈悲を一族、同輩と分かち合うべく願って熊谷に向かった。阿弥陀さまのいらっしゃる西方浄土へ背を向けては失礼であるとして、馬に逆さに乗り、 路々、念仏を唱えながら、板東に下った。

 このことは人々の関心を集め、不背西方の念仏行者の蓮生としてその名は全国の念仏信者の知るところとなった。
 
   「浄土にも剛の者とや沙汰すらん
      西に向かひて後ろ見せねば  蓮生 」

藤枝宿にて蓮生坊
 これを路銀の代わりにと
  質に入れたるお念仏
   阿弥陀ほとけに化わりける



●建久六年 「念仏質入れ」

 東海道の小夜の中山で直実は盗賊にあった。修羅場を幾度となく、かいくぐってきた蓮生にとって、取り押さえることは雑作のないことであったが、これでは短気がなおらんと、盗賊の望むまま、失って惜しいものとてなく、旅銭、法衣らすべてを与えてしまった。
 蓮生は路銀に困り、藤枝の福井憲順より借用し、その代わりとして 端座合掌し声高らかに南無阿弥陀仏と念仏を称えた。すると、蓮生の口より眩い金色の阿弥陀如来の化仏が現れ、 憲順の口の中に移った。南無阿弥陀仏を十遍称えると、十体の阿弥陀様が憲順の体中に収まった。
 憲順は夫婦ともども、これは有り難き奇瑞なりと、蓮生に銭を、さらに法衣、必要なものを与えた。その夜、蓮生は憲順宅に引き留められ、あたたかくもてなされ、阿弥陀如来の功徳を説き、その志に報いた。

 その後、建久七年三月、蓮生は帰洛の途上、路銀の返却のため憲順の屋敷を訪ねた。憲順の願いにより、十遍のうちの一遍を憲順の体中にとどめ置き、さらにしばらく滞在し、他力本願の教えを説いた。
 憲順は夫婦ともども蓮生の教化により念仏に帰依し、法名を蓮順と改め、福井家をそのまま念仏の寺とし、蓮生を開山となし、熊谷山蓮生寺となした。
   「阿弥陀仏と称ふる人は彼国に
      心ぞいたる墨染めの袖」蓮生

   「受け伝ふ法の流れも汲みて知る 
      このうれしさをいつか報ぜん」蓮順
 その後、熊谷山蓮生寺は、蓮因の代に親鸞上人が立ち寄り、浄土真宗に帰し東本願寺の末寺となり、 現在に至っている。寺宝には、「蓮生法師筆六字名号」、「太刀(直家銘)」、「蓮生法師木座像(中山備中守信敬刻)」などが今も伝えられている。

有縁無縁の衆生をも
 共に浄土へ生まれんと願い
  その名も蓮生坊
   上品上生の願を立つ


●元久元年 「上品上生の発願」

 再び京に上った蓮生は、元久元年五月に鳥羽一念寺上品上生の阿弥陀如来前にて、「我、上品上生を願って極楽に往生す。その他の八品の往生は我が願にあらず」と堅き大願を起こした。
 その理由は、自分は下品下生でもよいが、この世で因縁を結びし人々を一人残さず極楽往生させ、なお無縁の者も共に印接せんために、上品上生の願を堅めたのである。

「于時元久元年五月十三日午時に、偈の文をむすびて、蓮生いま願をおこす。熊谷の入道としは六十七なり、京の鳥羽にて上品上生の迎への曼陀羅の御まへにてこれをかく」(『法然上人絵伝(四十八巻伝)』第二十七巻)

 ある夜、蓮生は池の中より只一本の金色の蓮が、するすると伸び、その茎は長く、天高く伸びる夢を見たという。この夢は、板東の人、京の人たちが見た夢と全く同じで、蓮生のこの願いは、誠なりと人々の耳目を驚かした。

 蓮生の籠もったところは、現在の浄土宗一念寺であり、一説では蓮生法師を開山としている。法然上人が配流されたとき鳥羽南門から乗船された地の寺で、蓮生に与えた名残の名号を伝えている法然上人の遺跡である。本尊は東大寺念仏堂から迎えられた春日作の丈六、上品上生の阿弥陀仏坐像(旧国宝)である。


坂東最初の念仏道場
 往生予告の蓮生坊
  たなびく紫雲や芳香に
   晴れて浄土に生まれけり



●承元元年 「熊谷予告往生」

 建永元年秋、蓮生は村岡の辻に高札を立て「明年二月八日に往生すべき仏勅を給わった。疑うものは来たり見るべし」と往生を予告した。しかし、翌年二月八日には往生ならず、九月四日と定めた。集まった人々のなかには嘲り笑う者もいたが、蓮生は弥陀の思し召しとて、一向に気にせず、むしろ今生での念仏行にさらに邁進した。

 九月一日になると、朝より蓮生は沐浴し、袈裟を着け、上人より授かった迎接曼荼羅の画をかけ、端座合掌した。 念仏の声が高くなると、息が絶え、口より光明を放ち、紫雲が軒にたなびき、音楽が聞こえ、四方に芳香が流れた。六日、 棺に入れるとき、再び芳香、音楽の奇瑞があり、紫雲が西より来たり草庵の上にとどまること一とき、やがて西を指して去って行った。 この光景を見た人々は、蓮生は間違いなく上品上生の往生をされたと語った。

武州熊谷、熊谷寺
 坂東阿弥陀ほとけとて
  今も絶えざるお念仏
   なむや、熊谷蓮生坊





 蓮生が念仏を称えたこの草庵は熊谷氏が安芸に移ったことにより、一時おとろえたが、以後数百年にわたり念仏道場として法灯を現在まで伝えている。現在の熊谷寺は、この草庵のあった地であり、本堂の西方には蓮生の墓所と敦盛の供養塔がある。
 
 時下り、天正年間に徳川家康は開山の真俗にわたり巧勇あったことに感賞し、遠祖大光院殿御追福のため、百万遍念仏を修すべく仰せつけられ、御朱印三十石を賜った。境内には家康・秀忠が立ち寄り筑波富士を御覧になった小富士見亭があった。
 
 智誉幡随意白道上人が天正十九年に浄財を勧募し、大伽藍を建立、蓮生山熊谷寺と称した。以来今日に至るまで寺門繁栄し、現世安穏、後生浄土を祈り、福寿増長、子孫繁栄、諸願成就せること、開山蓮生法師の大伽藍のたまものである。

 江戸中期には本堂、十王堂、上品院、上生院等あったが、安政元年正月火災に遭い一塵に帰した。明治三十六年より約十六年八ヶ月を費やし、大正四年入仏式が行われた。現在、敷地一町五反に、間口十四間、奥行十六間の総けやき入母屋造りの大本堂は、戦災を免れ、関東一の木造建築物である。また、本尊下の戒檀廻りは長野善光寺、甲府善光寺とともに国内有数の構築物である。
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