蓮生山熊谷寺

御本尊

「証拠阿弥陀如来立像」

抑此の尊像は熊谷氏先祖より伝来する所にして、霊験無双なりしかば、 次郎大夫直貞夫婦一七日丹誠をこらし祈りしに瑞夢を感じ太郎直正、次郎直実生む、されば直実は京都より帰り、 居城の中に草庵を結び専修念仏の本尊と仰、或時、我上品上生を願ふ、此の願若成就せば、先瑞相を現し給えと、願ければ本尊光を放ち、 命終の日限を告給しか、是より証拠の阿弥陀と名のり奉る也。
永正三年のころ、同郷平戸村の浄安という道心者有、兼ねて霊験無双なるを聞、我本尊とせはやと窃に盗み去りしに、終夜この宿を出ること不能、 曙になりしかは詮方田中氏の家の縁先に捨去りぬ。この後、浄安来て右の由懺悔し本堂に籠もりける。又天正十年頃も、 西求坊という僧が本尊を盗まんとしたが、大盤石の如くなりしと云々。この外奇瑞あまたなりしかは秘仏となしたる也。
信敬拝念の輩は、七難即滅、七福即出の利益を蒙り、又女人難産の愁いなく、子孫繁栄の霊験いちじるしき所なり。

「浄土宗蓮生山熊谷寺開創縁起」より抜粋(江戸 文化十四年頃)

「熊谷稲荷大明神略縁起」

当山鎮守稲荷の神躰は弘法大師の御作にして直実朝に拝し夕に念する所也直実所所の戦場に剛敵を破り抜群の勲功を源平の陣頭に輝す時熊谷弥三左衛門と名乗り陣中に奇功を顕し危を助け堅きを砕き猛威をそふ或時は小童となり或時は壮士となり其出没の跡を知る者なし中にも一の谷大手の戦に先陣に向かひ戦しに一人附従加勢の世の常ならざりしかば其姓を尋るに我わ汝か常に念する所の稲荷なり急難を済んため軍用の形を現ずる也と跡を隠し給へり依て帰国の後弥左衛門稲荷と加号し居城の鎮守と信敬す唯陣中に顕るゝの口にあけづ其後告有けるは我を念ずる家又形をうつし祭り又は我名を唱ふる輩には火災盗難を除しむべしと有しが夢覚て秘符あり是を守袋に入置しに直実直家ともに数度戦場に向かふといへども運強く武名を顕せしは神徳による所なるべし夫より数百年遠近の男女 熊谷稲荷と号して信る輩各々願に随ひ成就せすと云事なし爰に慶長年中当山中興幡随意上人に神告ありしは凡仏心の感応はその国所によるもの也我を念する者は火災盗難を消除し開運出世の徳を授け又安産子育の利益を与べし其上出生の男女童形の内我眷属となり朝暮念ずる輩には無病成長うたかふ事なかれ此秘符を所持の者には右の分はさら也猶更福寿無量子孫繁昌せしむべし汝か法徳久修練行の念力を加持せば弥虎に角を添る如くなるべしと夫より上人神授の秘符え法威をそへ永々当山に伝へしめらるゝ者也追々諸人渇仰せしかば日に月に神威倍増し遠近の諸人現益を蒙る者挙てかぞへがたし別て子育の利益衆人のしる所也委くは本縁起のごとし。

*御神体(荼枳尼天)は隣接する稲荷神社にて祀られている。