ながむる人のこころにぞすむ

「月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」

浄土宗の開祖である法然上人が詠まれたお歌で、浄土宗の宗歌となっているお歌です。

 月かげ、すなわち月のあかりというものは、私たち男性も女性も大人も子供も富める者もそうでない者も、日本中どこに居ても世界中どこに居ても区別されることなく平等に受けることができます。ただ、普段からこの月のあかりというものを意識しているという方はあまりいらっしゃらないと思います。場所によっては一晩中昼間と同じように明るいところもあります。
でも、テレビや新聞などのニュースで「今日は十五夜ですよ、今日はスーパームーンですよ」などと耳にしますと、今日の月はどんな月かなと思って顔を空に上げ月をご覧になることがお有りかと思います。
そうしたとき、月が私たちのことをいつでも明るく照らしてくれているということにお気付きになることでしょう。

この月がもし無かったら・・・

夜の世界は真っ暗闇の世界です。右も左もわかりません。北も南もわかりません。近くに誰かいるのか誰も居ないのか、どこまで行けば人に会えるのか、それともどこまで行ってもひとりぼっちなのか。不安と恐怖と孤独に支配された漆黒の闇の世界です。そんななかに月が一筋の柔らかい光を照らしてくれる。この月の明かりのおかげで私たちはどれほどすくわれることか。不安と恐怖から解き放たれ、安心というものを得ることができるのか。この月の有り難さというものは、月を眺めようと顔を空に上げるアクションをして初めて感じ取れるものであり、そうした人のこころに月はいつでも宿っているのですよと法然上人はこのお歌のなかでおっしゃっています。

法然上人はこのお歌の中で、阿弥陀さまのご慈悲の光は、この月のあかりと同じなのですよとおっしゃっています。

 『観無量寿経』という経典の「真身観文」と呼ばれている一段落にこういう一節があります。

「光明偏照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」

和文に読み下しますと、

「光明はあまねく十方の世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」となります。

 光明というのは阿弥陀さまのお慈悲の御光(みひかり)のことです。阿弥陀さまの光は十方の世界、すなわちあらゆるところを明るく照らしている、あらゆるところに届いているという意味です。

 阿弥陀さまのこの御光も月のあかりと同じで、私たちのことを常に明るく照らしてくださっています。すなわち、私たちのことを常に見守ってくださっています。ですので、私たちが月を見るために顔をあげるのと同じように、南無阿弥陀仏と、「阿弥陀さまお願いします」とお称えするお念仏の声は必ずお聞き下さっています。

「念仏の衆生を摂取して捨て給わず」

そして「摂取して捨て給わず」、必ず救い摂りますよ、救い漏らすことはありません、お念仏をお称えする全ての人を必ず浄土へと導き往生させますよ、という阿弥陀さまの有り難いお慈悲の願いが宣言された一文です。

先に浄土へ往かれた愛するご家族にいつか浄土でまたお会いするために、「南無阿弥陀仏」とお称えしましょう。必ず浄土に花が咲くことでしょう。

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