九州に形成された鎮西派教団の教線を鎌倉に進出させたのは現実的には聖光の弟子良忠であるが、その教線を関東一円、 東北へ推し進めたのは良忠門下のいわゆる関東3派の派祖たる良暁、性心、尊観であり、 さらに一転して京都へ西進さしたのは京都3派の派祖である慈心、然空、道光等であったといえる。
道光は鎌倉の人で文永9年(1272)頃に京都に移住したが、入れ替りに然空と慈心が鎌倉に下つて良忠の教を受け、さらに建治2年 (1276)に良忠を京都に招請し、良忠を中心に道光、然空、慈心等による活発な弘教がなされた。 宗祖滅後半世紀をへて鎮西派教団の京都進出が始まったわけである。
この頃京都では法然の流れを汲む者の中で異議が並び立ち、相互に是非を争っている状態であったが、教団として勢力のあったのは、 証空の門流から成る西山派であった。このような状態の京都へ何一つ地盤を持たぬ鎮西派が教線を拡張しようとしたのである。 彼等がとった進出の方法は、自派が祖教を守り正統の宗義を相承していることを証明するにあった。
道光の編纂したごとく『漢語灯録』『和語灯録』は序文によると、 門徒中異説紛々として各各師説と称して自義を主張しているために迷いやすくなっているのを憂い、祖教を守らんが為に遺文を集めるとあり、 宗祖の古き跡をたずね、近代の新しい道(異議)を捨てんと思うその態度を表明している。 そこには正統の義を継承していみのばわれわれでなくてはならないという意識が底に流れているのがわかる。また、 隆寛が宗祖の伝燈者たることを主張した『明義進行集』の撰述時期と相前後する弘安7年(1284)に書き上げられている『聖光上人伝』は、 聖光は宗祖から宗義を皆伝した旨の自筆書状を送られたことになっており、 道光はもし宗祖が聖光に教授しなかったならば法は滅したであろうと述べている。つまり, 聖光は宗祖から正統の義を相伝した後継者であることが強調されている。
また、さらに弘安10年(1287)に良忠が没すると、すぐに『然阿上人伝』を著わし、 良忠が宗祖から浄土宗義を受けた聖光からさらに相承の義を相伝したことを主張している。そのことはすなわち宗祖から聖光へ、 聖光から良忠へと次第する鎮西派の法系こそが正統で、その相承の義が祖教であることを主張し、鎮西教団そのものの正統性を宣言したのである。 このことは既に良忠が自ら『三代の相承』と述べているところにも見られる。ここに聖光を二祖とし、良忠を三祖とする法統が成立し、 実際にはに京都に進出した鎮西教団によって樹立されたものであった。
宗祖-聖光-良忠の正統性を強調した鎮西派の人々はさらに、宗祖-源智-蓮寂と次第する法系(紫野門徒)との接近を図った。 源智は宗祖の有力門弟の一人であったが、その法系は『法水分流記』にも源智-蓮寂-道意としか出ていないように振わなかったが、 源智以下いずれも宗祖門下にとって関心事である宗祖の遺跡を守っていたという事実があった。すなわち三人とも賀茂の河原屋 (百万遍知恩寺の前身)に居住していたにも関わらず、源智-蓮寂の法系は門流の争いには超然として宗義宗団的に無色であった。
この法系に対して嘉禎3年(1237)源智が聖光に書を贈り、法然上人の正統伝持を学んだことや、 良忠と蓮寂が東山赤築地で宗義を校合し異途なきことを確めたという話も伝えられている。いずれも史実と考えられないが、 このような話を作り出した者の意図がどこにあったのか、またその教団的背景がどのようなものであったかは想像できるところである。正確には、 鎮西教団は宗祖-聖光-良忠という法燈を確立して、独自性を保ちながら、他方で宗祖-源智- 蓮寂の法系と結びついて京都での足場を固めたのである。
鎮西教団の京都進出の過程は、知恩寺の歴代を通してうかがうこともできる。知恩寺の歴代は、宗祖-源智-蓮寂と次第して、道意、 智心、如空へとつづく。道意は蓮寂に嗣法し、また良忠にも宗要を受けたと伝えられ、如空も慈心と良忠から宗義を相伝したといわれているから、 鎮西派進出のようすが現われており、やがて鎮西派で育った人が住持するようになる。知恩寺8世の空円は慈心について得度し、 良忠に師事した人であった。このように、鎮西派は諸派分立する京都へ入り、次第に地歩を築き上げていったのである。
鎮西派の京都進出は成功し、やがて浄土宗を代表するまでに発展した。鎮西派がこの様に教団的に成長していったのは、 この派が京都に入る以前からすでに開始してい自宗寺院の建立ということにその一因があると考えられる。他の派がまだ他宗寺院によりかかるか、 或は衝をすみかとしていた頃に、一歩進んで自宗の道場や寺院を持って布教を始めたということは、一方では聖道門教団の弾圧を防ぎ、 一方では積極的かつ持続的な伝道を可能にしたのである。浄土宗寺院団の胚芽は鎮西派にあったと言える。
*本文は浄土宗宗務庁教学局発行『浄土宗史』より抜粋編集したものです。