「文殊菩薩一体お届けします」
平成二十三年正月二十三日、法然上人の八百年御忌(ぎょき)が訪れます。皆さまご存じの熊谷蓮生法師の師匠でもあり、浄土宗を開かれた方でもあります。この八百年御忌を迎えるにあたり、法然上人の生涯を少しばかり振り返っていきたいと思います。
法然上人のお生まれは、平安時代末の頃で、長承二(1133)年四月七日のことです。美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米南町)に押領使(おうりょうし)という役を任じられた漆間時国(うるまのときくに)という豪族がいました。時国の妻は渡来人の流れをくむ秦氏(はたうじ)といいました。
時国夫妻には久しく子供が授からず、館近くの岩間観音と呼ばれる寺にて祈願を重ねていたところ、その成満の日に、秦氏が剃刀を呑むという不思議な夢を見て懐妊され、お生まれになったのが法然上人でした。幼名は、智恵の象徴である勢至菩薩(せいしぼさつ)にちなんでは勢至丸(せいしまる)と名付けられました。
また、このとき、空には紫雲がたなびき、貴い人が生まれた瑞(あかし)とされている二流の(ふたながれ)白い幡が、どこからか風に流れてきて、庭の椋の木に掛かったと言われています。
「両幡(ふたはた)の天下り(あまくだ)ます椋の木は
代々に朽ちせぬ法(のり)の師のあと」
このお歌は蓮生法師が、師匠法然上人の生家を初めて訪れたときに詠まれたものです。法然上人御自作の木像を背負って、法然上人の代わりにご両親のお墓に参った蓮生法師は、この椋の木を見て、「お念仏の教えは、今までも、今も、そしてこれからいつまでも決して朽ちることはない」と感激し涙を流しながら念仏を称えたと伝えられています。
両親の慈愛のもとで健やかに育たれた勢至丸でしたが、九歳のとき、明石定明(あかしさだあきら)という源内武者(げんないむしゃ)の夜襲を受けます。この明石定明とは、都の貴族が地方に所有する荘園(私有地)の管理を任せるために派遣したひとりです。一方、漆間時国は国の役人として押領使という権限を与えられています。両者がぶつかるのは避けられないことで、今まで積み重なった確執がここに夜襲という形で爆発したのです。
寝込みを襲撃された時国が不利なのは言うまでも無いことですが、日頃から武芸に秀でていた勢至丸さまも弓を引いて応戦されました。その一筋の矢が明石定明の右目を射貫いたのです。重傷を負った定明の軍勢は一斉に引き上げていきましたが、時国もかなりの重傷を負い、この数日後に息を引き取ったのです。
死の間際の父時国に対して、勢至丸はこう言いました。
「父上、この仇は私が必ず果たしてみせます。」
こう息巻く勢至丸に対し、時国は息も絶え絶えながらこう言ったのです。
「このたびの出来事はみな私の至らなさによるものである。もし、これを恨み、お前が仇討ちをするなら、相手もまたお前を恨み、仇討ちは尽きることなく繰り返されていく。出家をして私の菩提を弔ってくれ。そして、すべての人々が争うことなく、楽しく健やかに暮らしていける教えを探してくれ。」
父時国の遺言をしっかりと胸に受けた勢至丸は、鳥取県との境近くにある那智山(なちさん)というところにある菩提寺(ぼだいじ)という寺に入りました。
この菩提寺は、母秦氏の弟である観覚(かんがく)上人が住職を務めている寺です。叔父観覚のもとで仏の教えを学ぶこととなった勢至丸は、どんどんいろんなことを吸収し、覚え、そして自分のものとしていきました。こんな山奥に埋もれたままで一生を終えるのは惜しいと感じた観覚は、勢至丸に当時の仏教の最高峰である比叡山へ上ることを勧めます。
比叡山に上るということは、母と子の長い別れを意味します。夫時国を失い、今また子とも別れなければならない母秦氏の胸中はいかばかりであったでしょうか。もちろん、このとき十五歳であった勢至丸にとっても辛い別れです。しかし、亡き父の願いである「すべての人々が楽しく健やかに暮らしていける教え」を必ず探し当てなければという熱い思いを胸に、悲しみを振り切って比叡山へと上ったのです。この思いが、やがてお念仏というすべての人々が救われる教えを開かれる大きな力となったのです。
冒頭の「文殊菩薩一体お届けします」という一文ですが、勢至丸を比叡山へ紹介するにあたり、叔父観覚が師匠である持宝房(じほうぼう)源光(げんこう)上人への宛てたお手紙の中の一節です。
文殊菩薩と称されるほど聡明であった勢至丸は、のちに比叡山において智恵第一と称されるほどの僧侶となったのですが、お念仏の教えにたどり着くまでの道はまだまだ険しいものでした。