蓮生山熊谷寺

熊谷直実公生誕地、蓮生法師往生之地

「三高院」

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約2分

 三高院は,深谷城主だった松平源七郎康直の菩提寺である。

 松平源七郎康直は徳川家康の関東入国後の、初代深谷城主であり、18松平のうち長沢松平の出で、その母は家康の妹である。 徳川家康の甥にあたる康直は,家康の江戸入りの後,豊臣秀吉の北条攻め(岩槻城攻め)のときの功績により, 深谷城主となり1万石を家康から与えられた。しかし,2年後の文禄2年(1593),康直は25歳で若くしてこの世を去った。
 墓は本堂横にある宝篋印塔が彼の墓であり、「三高院文書」と共に深谷市の文化財に指定されている。

 本尊阿弥陀如来は、康直の息女、連姫(長寿院)が、寄進したものであり、連姫は父の死後、 家康の養女となり化粧料7千石を授かり筑後國の有馬玄蕃頭豊氏に嫁いだ。また、康直の母、矢田姫は家康の妹であったが、 長沢松平家が断絶するのを憂い、家康の七男松千代に深谷城を継がせたが、8歳で没したため、 家康の六男忠輝が10代目として相続しました。
このように、長沢松平家と徳川家とは深い関係をもっていたのである。
 
 
 三高院の創建は、文禄3(1594)年頃であり、徳川家康の妹矢田姫の嫡子松平源七郎康直を開基とし、 広蓮社天誉立光上人を開山としている。三高院縁起(文書)によれば、1700年頃に堂宇を焼失、 第9世覚蓮社成誉円我上人の代にて再建するも、寛政年間に再度焼失したとされている。長らく古家を買い求め仮堂としていたが、文久2 (1863)年、第25世念蓮社得誉覚龍上人の代に、檀家の人々はもちろんのこと、中山道を往来する旅人、また寺社奉行の許しを得たうえで、 御府内の武家方や十か国の人々たちの喜捨により再建された。
 その後、幾多の改修・移設等を経て、現在の本堂及び庫裡は第29世愍誉晃俊上人の代にて再建・落慶されたものである。


『三高院縁起』より抜粋

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