今、世界最高齢はある日本人女性とのことです。なんと116歳とのことで、本当に日本人の寿命というものは長くなりました。男性では81歳ちょっと、女性においてはなんと87歳を越えるまで平均寿命が延びています。
世界的にも医療や科学の進歩によって寿命は延びているのですが、少し前のこと、ある国の寿命は37歳であったそうです。この国は内戦による内戦で、兵士だけでなく一般の人々も、大人も子供も被害を受け亡くなっていったそうです。こういう状態ですので街の状態も良くありません。とくに衛生面はひどく、日本であったらちょっとした擦り傷程度で済むケガがこの国ではそれがもとで破傷風となり命を落としてしまいます。ちょっとした風邪も重症化し、肺炎となって亡くなってしまいます。良くないことが良くないことを呼ぶ、負の連鎖が止まりません。
人はこういった不安な毎日を過ごし、安らぐことのない毎日が続いていくと、「来世こそは幸せに生きていきたい。毎日笑いながら過ごしたい」と考えるようになります。そこに宗教というものが生まれてくるのです。
それに対し、今のこの日本においては、私たちは毎日穏やかな生活を送っています。いや、朝から晩まで働きづくめでヘトヘトだよ、という方もいらつしゃるかもしれません。しかし、こういった政情の不安定な国の人々に比べれば私たちは恵まれています。いつ命を落とすかもしれないという不安は格段に少ないからです。それゆえ来世観というものは薄らいでいきます。宗教に関心を持つ方は少なくなってしまうのも仕方のないことです。
しかし、命というものに永遠はありません。誰にでもいつかは“死”というものが訪れるのです。私たちはそのときになって初めて、「死にたくない、やり残したことがある、もう少し生きていたい」と願い、現実との間にジレンマが生じ、苦しみ始めるのです。
この苦しみから解き放たれるための手段を仏教を開かれたお釈迦さまはこう説かれています。「諦めなさい」と。
全てのものには終わりがある。永遠なるものは何ひとつない。全ては移ろいゆき、朽ち果てていくのである。その理を知りなさい。それを知ったとき私たちは全ての苦しみから解放されるのです。すなわち、なるようにしかならないのだから、こだわっても仕方のないことである。それを受け入れなさい。諦めなさい。そう説かれているのです。
年老いてゆくことや死にゆくことは避けられないことです。肉体の不老不死というものは叶わないのです。あれほどの権勢を誇った秦の始皇帝もエジプトのファラオも手に入れられなかった。だからお釈迦さまは諦めなさいと説かれたのです。
しかし、愛する人とは別れたくない、でも今別れは避けられない。ならば、いつしかまた逢えないだろうか? いつしかまた逢いたい。その思いは朽ちることもなければ、消滅してしまうこともないのです。肉体の不老不死というものは叶わないけれども、その思いというものは不老不死であり、浄土へと繋がっているのです。
先立たば おくるる人を待ちやせん
花のうてなの 半ば残して (法然上人御作)
もし自分があなたより先に浄土へと往ったならば、私より遅れてくるあなたを、私を送り出してくれたあなたのことを浄土でお待ちしております。蓮の花のお椅子の半分をきれいに整えてお待ちしておりますよ。また、浄土でお逢いしましょうね。
先に往かれた愛するご家族といつの日かまた浄土でお逢いできることを阿弥陀さまにお願いして、十編のお念仏をご―諸にお称えくださるようお願いいたします。