この勝尾寺は大阪府箕面市にある高野山真言宗の寺院であり、西国三十三箇所の第二十三番札所となっています。
勝尾寺という寺名の由来は、清和天皇の玉体安隠を祈って効験があったことから、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」の寺号を帝より賜ったが、「王」とは畏れ多いと考え「王」を「尾」にひかえ、勝尾寺と号し、勝運の寺として信仰されて来ました。
山の最上に位置する二階堂は、法然上人が讃岐からの帰途、証如上人(勝尾寺第4代座主)の遺徳をしのび4年間留錫され念佛三昧の行に入られたお堂であり、承元4年(1210)三月に、善導大師夢定御会見の奇瑞を得られたところです。
本尊はその折の両祖対面の尊影を映した壁板であって、念仏三昧すれば善導大師の御影を拝することが出来ると言われており、円光大師(法然上人)二十五霊場の第5番となっています。
この勝尾寺はその後、多くの寺院と同じく幾多の火災に見舞われましたが、建久6年(1195)源頼朝の命により、梶原景時、熊谷直実らが力をつくして再建したとされており、その供養塔及び頼朝再建の薬師堂は当山最古の建造物として今に残っています。
写真の供養塔は、蓮生法師の供養塔ですが、熊谷蓮生法師は遅くとも建久4年には出家し、建久6年2月には嫡男直家に家督を相続させており(『熊谷置文』)、同年8月には頼朝に招かれ鎌倉にて仏法・兵法について自らの考えを述べています。
それらから考えるに、一説では、”蓮生”は”蓮生”でも、熊谷蓮生(れんせい)ではなくて宇都宮蓮生(れんしょう)であったのではとも考えられています。実際、年代的には宇都宮蓮生頼綱のほうが合致しますし、後に法然上人の遺骸の移動を警護したという事実などからも有力な説と言えるかと思います。